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「学術書出版」は必要とされているか

この冬は学術情報流通に関するシンポジウムに集中して出席しました(1月30日2月8日2月26日2月28日3月13日)。細かい議事は公開を控えますが,さすが都心はこうした催しに事欠かないと感心します。ここではそれと別に,幾つか気にかかったことを記します。ここで重要なのは単に「必要か」ではなく「(誰かに)必要とされているか」という問いの形です。

学術にかぎらず出版がもつ大きな機能として,良質なコンテンツの選出,それを世に出す形へと整える編集機能,最適なチャネルを通じて読者に届ける普及機能があると思います。そして著作が出版される結果,それは著者の業績となり,将来のキャリア形成へとつながります。 ところがアメリカの学術出版協会(Society of Scholarly Publishing: SSP)が公式ブログで記している通り,今や図書館の予算は逼迫し、研究者が業績の主な拠り所とする雑誌論文の普及はビッグディールの購読モデルからオープンアクセスが必須(mandate)となりつつあります(経過はこちらの記事で)。またメディアにこだわらないならば,個人ブログやSNSなど,紙幅を問わない発信媒体はあまた存在するようになっています(それらがどう読まれ評価されるかは,全く別の問題ですが)。

編集機能はどうでしょうか。上記ブログでは,出版から「頭脳流出」が起きた結果「心理療法」が活況を呈していると述べます。確かに,対人ベースで,時には気難しい著者や学界を相手どり,執筆の過程で悩む著者の葛藤に耳を傾けて適切に助言すること,著者の心を掴む能力,また幅広い話題に耐える人的ネットワーク(不測の話題にも応じられる会話のヒキダシも含む)は格好の転職先かもしれません。

良質コンテンツの選出についても,その正反対の現象である捏造の発覚から思わぬ逆風が吹きました。先般のSTAP細胞論文問題を受けて『ハフィントン・ポスト日本版』では「インターネット上のオープンな査読は閉鎖的なアカデミアを浄化する」といった論旨がでています。〈すべてを公開・透明に〉は極論であるにせよ,従来型の選出機能に疑念は高まっていると言えます。

暗い話が続きますが,最後に冒頭で触れた各シンポジウムの印象を記して踏ん切り悪く押し切りたいと思います。

一つは登壇者の顔触れ。「書籍出版関係者がほとんど登壇していない」。小さからぬ衝撃でした。今や本がなくても学術情報流通は成り立ちうるのでしょうか?もちろん出版業は概して少人数なので,たまたまキーパーソンの都合がつかなければ出席は叶わない場合もあるでしょう。しかし複数開催された中での状況はやはり不自然であるように思います。 またあるシンポジウムでは,司会の先生が発した以下の言葉も印象的でした。

日本の学術は研究内容こそ優れているが、それを発信するプラットフォームを専ら外国の版元に依存している。

これが根拠を明示して比較されたわけではないため,どれほど一般的に受け入れられた見解なのかははっきりしません。ただし書き手の側に違和感なく受け入れられる傾向が強まっているのでしょう。だとすれば状況の打開に向けては,問いの形を変える必要性があるのかもしれません。

「学術書出版」に何が期待されており,それをビジネスモデルとして実現するには何が必要なのか。

これを記して新たな季節に思いを致します。

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1件のコメント

  1. itaru.saito より:

    本日の The Chronicle of Higher Education で人気の高い記事から。良質なコンテンツの選出を支える査読,その対価の問題については,意外と等閑に付されてきたのがアカデミアの実態と言えそうです。 http://chronicle.com/article/Want-to-Change-Academic/134546

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