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学知は誰のものか:アカデミック・キャピタリズムを超えて

http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100002069

この本を某新聞の書評欄で目にしたとき,まず執筆の成り立ちを知りたいと思いました。多くの大学人の「市場化」に対する忌避,安直な「役に立つ学術知識(学知)」への拒否感は根強いものです。なぜ,それにもかかわらず市場主義は根強く浸透しているのか。

本書の描き出すストーリーは明確です。利益がすべての作動原理となる社会では,大学が存続するための実質的な装置が必要だからだと指摘します。歴史家らしく,パトロネッジ(patronage)の歴史的な経路依存性として表現します。

大学のような利潤を上げることを目的としない場所が,社会で存続するためには強いパトロネッジが常に必要とされる。アメリカではそれが歴史的に複雑に生成したのである。…〔中略〕…オックスフォード大学やケンブリッジ大学は,中世から所有する大土地の資産で自らの研究教育を支えてきたし、ドイツの諸大学には,官僚や職業人を輩出する機関として国の予算が投入されてきた。一方アメリカでは,大学や知識人を支えるパトロネッジは,それぞれの大学への社会の要求に応じてさまざまな形式を取っている。社会が大学やそこに集う知識人に新しい知識や技能を求め,それに応じて大学との間で新たな関係が形成される。このプロセスの繰り返しが,多様で柔軟な知のパトロネッジを生みだしてきたのである〔本書pp.121-122〕。

学術情報流通の世界では,情報の受け手(読者)と担い手(著者・発信者)の間で費用負担の関係を改めることにより,「無料で読めるようにしよう」という知識のオープン化(open science)が語られます。1960年代以降,その動向を端緒として目覚ましく成長したのは生命科学(life science; medical science)の分野でした。

生命科学の領域において,どこまでをパブリックドメインとし,どこからを私的な利益と考えるのか,そもそもその境界設定そのものが難しい。公的な資金で行われる研究をパブリックと呼べばいいのだろうか。産業に直結するかどうかをあらかじめ特定できないものを,パブリックドメインに属するというべきなのだろうか。
特許を取得することは必ずしも私有化とは限らない。研究者の側からもしばしば言及されるように,特許は排他的な権限を企業に提供することによって,特許がなければ埋もれてしまいがちな技術を社会に知らしめるという効果を持つ。いくら新たな基礎技術が開拓されても,それが産業的に用いられなければ,葬り去られてしまうという研究者側の危機感は強い。〔本書91ページ/第3章「生命は誰のものか?」〕

知的財産の公共性を考える議論は,むしろ経済学(コモンズ)の分野で展開されています。こうした立場を極端に推し進めれば,全ての学知はオープンに読まれるべき,という結論にまで至ってしまうかもしれません。果たしてそれが望ましいかは議論の余地が大いに残るところです。

いずれにせよ,発展はおろか存続までもが産業利用と密接に結びついてしまったのが,現代的な科学のあり方と言えるようです。よく言われる「産学連携」はその端的な表れでしょう。

また今では,人文学の分野でもこれを対岸の出来事として傍観するのではなく,積極的に取り入れる動きが出ています。例えばローカル文化を「観光資源」として捉え,地域の人的交流に役立てる考え方があります。

本書はあくまで「生命科学」の動向に焦点を絞った研究書なのですが,学知と市場のあり方,その展開についても色々と考えを深めさせられる良書です。

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1件のコメント

  1. […] 第一の転換は、巨匠的な天才が引っ張るアートとしての科学から、職業人としての科学者集団が構成する「制度としての科学」への転換です。 この立場によると、制度の中に暮らす科学者は「研究対象に釘付けになって、周囲の人間にはアブセント・マインド(上の空)になる」どころか、「同業者の動向、業界の気配」いわゆる同僚評価(peer review)を気にするのが科学だといいます。19世紀以後に拡大を遂げ、20世紀には産業としての科学技術へと拡大しました。そこで、アメリカ合衆国に代表される市場主義(アカデミック・キャピタリズム)が強い推進力となったことは既にみました。 […]

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