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吉見俊哉『大学とは何か』を読む(2)

前回のポストから日が空いてしまいましたが、再び大学の話しに戻ります。

5月5日の記事では変容する大学に触れましたが、今の大学に期待されている役割は大きく三つあると思います。第一に学術研究、第二に教育、第三に社会への発信と還元です。前回の記事では大学と学術研究の関わりを取り上げました。今回は主に、第二の教育に焦点を当て、関連する記事も参照しつつ吉見氏の議論を読みといてみたいと思います。

大学の第三の役割を「学校から労働市場へ生徒を結びつけること」つまり接続(教育社会学では transition と呼ぶそうです)と捉えた場合、教育機関としての大学はずいぶん幅を広げています。日本の場合、戦前は師範学校や高専が担う複数のルートがあったことが示されています〔本書p.175〕。戦後は四年制大学を軸とした一元化が進み、通信教育部といった継続教育(リカレント教育)は並行するものの、10年ほど前から専門職大学院(professional school)の設置による職業教育の強化、ここ数年はリーディング大学院と称する教育機関の設置と共に「グローバル基準のリーダー」の養成が進められています。

もう一つ、MOOCs が牽引するオンライン教育が「新しい教育のかたち」として注目を集め、New York Times や朝日新聞でも話題になっています。これには吉見氏自身も紙上でインタビューに答え、評価を述べています。

世界中の大学で、国境を越えた人材の獲得競争が始まっている。グローバル化が進み労働力の流動化が激しくなる中、頭脳もボーダーレス化しつつある。東大もこれまでのエリートだけでなく、世界を相手にするトップ大学として地球市民としてのエリートを育成していかなければならない。…〔中略〕…もちろん、頭脳獲得競争自体は大いに問題がある。ローカルな価値を売り物にする大学なら、こんな舞台には乗らず、地域に根ざして地域の価値を守って欲しい。だがグローバルなトップ大学であることを運命づけられている大学は、それだけではすまない。〔「教育をタダにする――オンライン授業の衝撃(下)」『朝日新聞』2013年3月8日朝刊27面〕。

ただMOOCs は、今のところ英米有力大学が学生獲得をめざした広報(promotion)として機能しており、既存の大学教育にとって代わるとはいえないとする見方が有力です。たしかに高等教育を受ける機会に恵まれなかった開発途上国の人々の教育水準向上には資するでしょう。ただインターネット環境が確保されていない人口との格差(digital divide)は残ります。

私の実感に照らしても、教育は人の集まりがなす営みで、パッケージ化された教科書や講義群ではないように思います。かつて専門職大学院と呼ばれるところに2年籍を置きましたが、提供されるカリキュラム自体に特別な魅力を感じたことはありませんでした。結局、どういうバックグラウンドを持ったひとが大学院に集まるかで充実度は決まります。かつ、その場を有効に活用したいとき、何をどうやって進めていくかは院生個々人のコミットメントに委ねられていた気がしています。

こうした教育の拡大を目の当たりにすると、何でもかんでも大学(学校)が担わないといけないの?という素朴な疑問が浮かびます。もっともらしい理由をつけることもできると思いますが、実際このトレンドに大した意味はなく、単に大学が〈学び〉と〈仕事〉の界面に有るがゆえの性にすぎないのかもしれません。かつては家庭あるいは企業などの職業機関で教えられていたことが学校に押し付けられている印象もぬぐえません(実際その種の批判を加えるひとはいて、『脱学校の社会』『脱病院化社会』という本も存在します)。逆に世の中にあったはずの機能が弱まっていることを暗示しているのかもしれません。

Andrea White with the Krimmel Intermediate Spe...

Andrea White with the Krimmel Intermediate Special education/Developmental Class (Photo credit: Wikipedia)

大学にしか担えない教育の役割とはなんでしょうか。本書で示された「新しいリベラル・アーツへの想像力」をたくましくするとき、大ざっぱな獲得目標は「学び方を学ばせる」ことではないかと思います。また大学院ならば「ものの調べ方を学ばせる」ことではないかと思います。ただ今日、大学が学生を受け入れる際の「能力」の測り方はきわめて多様化しています。

昔と少し事情が違うのは、名門大学に入るために、必ずしもペーパーテストの成績が良くなくともいい点ぐらいだろう。慶應義塾大学SFCが1990年にAO入試を導入してから、全国の大学が学力以外の物差しで受験生の選抜を行うようになった。中には「詩」とか訳のわからないジャンルで大学に入る人もいる。〔古市憲寿『僕たちの前途』2012年、250ページ〕。

自身、難関大学の用意した小論文入試に詩をもって突破したと公言する社会学者らしい洞察です。大学は自ら蒔いた種をどう育てるかを考えなければいけません。

他方、日本語の「教養」と英語のリベラル・アーツ(liberal arts)にも隔たりがあるように思います。あるエッセイでは、ハンガリーへ青年海外協力隊を派遣する国際協議で

・武道の先生ならば剣道と柔道の基本をわきまえていて、ついでに宮本武蔵の『五輪書』と新渡戸稲造の『武士道』を解説できる人
・日本語の先生ならば日本語の基本が教えられて、お茶・お花の嗜みがあって、清少納言の『枕草子』を解説できる人、…

とハンガリー側から提示され「そんな要請は前代未聞。活動開始以来初めてですよ」と日本の担当者が笑って返すエピソードがありますが、

古代ギリシャとルネッサンス以来、ヨーロッパの理想的人間像とは、万能の天才なのである。レオナルド・ダ・ビンチとまでいかなくとも、多面的に知識・能力・教養を伸ばし開花させていくことこそが、その人と社会の幸福につながるとする見方が強い。〔米原万里『魔女の1ダース――正義と常識に冷や水を浴びせる13章』2000年[初版1996年]新潮文庫、284-285ページ〕。

筆のたつロシア語同時通訳者として知られた米原氏のユーモアあふれる引用です。博覧強記でありながら表向きはそれが際立たない、日本人からしたら想像もつかない人間像です。

では、もっとたくさん勉強して、物知りになっていれば事足りるのでしょうか。

それは勉強すればいいでしょう。悪いはずがありません。ただ、外国人から求められているあなたの教養は、必ずしも日本の歴史の教科書に書いてあることではない、ということを知っておかないといけません。
学校で教科書を読んで眠くなったように、あなたの教科書的な説明に外国人も眠気を催すかもしれません。知識は本で獲得できることです。あなたから聞きたい話は、歴史的な伝統が現代の社会でどう残っているのか。法隆寺の木造建築の技術が、今どう生きているのか。桂離宮の空間がどう綿々と続いているのか。こういうことです。…求められているのは見方です。知識ではありません。〔安西洋之「日本人の教養」『ヨーロッパの目、日本の目――文化のリアリティを読み解く』日本評論社、2008年、96ページ〕。

これらいくつかの見方を複合して考え直したとき、教養とは、一見机上にある知を自分の直面する状況ないし目指す着地点に引き寄せ、現状を切り抜けていく力に変えることではないでしょうか…

◎吉見俊哉(2011)『大学とは何か』岩波新書.

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1107/sin_k600.html

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1件のコメント

  1. […] ブログを開始して以後、(1)・(2)にわたって「大学とは何か」をじっくり考えてきましたが,そろそろ一区切りにしたいと思います。連載の最後として、第三の役割、社会への発信・還元という切り口から考えてみたいと思います。お話しのエッセンスは先週の記事に英語でも公開しています。 […]

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